昭和12(1937)年7月、それまで降り続いていた雨によって発生した土石流が、富士写真フイルムの本社工場(現・神奈川工場足柄サイト)を押し流そうとしていた。
その流れを命がけで変えたのは、当時増築工事に携わっていた鹿島組の社員たちであった。
大正12(1923)年の関東大震災で、当時木挽町にあった鹿島組本店は全焼している。
地震の揺れによって人にも建物にも被害は出なかったが、社員たちが帰った後、 折からの強風で延焼による焼失を免れることはできなかった。
今では、私たちの生活のほとんどすべてに電気は欠かせなくなっている。
発電の歴史は建設の歴史であり、地域開発の歴史でもある。今回は、大正初期の竣工以来茨城県北部に今なお残り、発電を続けている花貫川水力発電所の建設とそれにまつわる逸話を紹介する。
4月の桜とともに新学期、新入生、新入社員・・・と感じるのは日本人だけである。1月、2月が新学期というオーストラリアの一部の州を除く世界の大半の国では、新学期は8月か9月からで、4月に新卒の一斉入社があるのは、世界でも日本だけといっていい。 今ではごく一般的に行われている新入社員教育であるが、いつごろからはじまったのか、また、時代の変遷とともにその教育内容はどう変化していったのかをさぐってみよう。
二・二六事件とは、昭和11(1936)年2月26日未明、陸軍の青年将校らが1,400名余の兵を率いて 「昭和維新」を起こそうと決起し、未遂に終わったクーデターである。現在本社のある赤坂近辺がその舞台となった。26日から29日までのたった4日間ではあるが、戒厳令が敷かれた東京での企業活動を探る。
留萌市は北海道の日本海側、留萌川の河口に広がる人口26,000人の町である。現在の留萌港はロシアや中国からの大型石炭運搬船が寄港するニシン水揚げ日本一の輸入港だが、もともとは 昭和初期に石炭を積み出すための港として整備された。今回は、大型港湾工事が役所の直轄工事ではなく建設会社に発注して作られた日本初の港・留萌港と、日本の港の歴史を探る。
ここに一冊の古いアルバムがある。表紙を開くと、THE CONSTRUCTION WORK OF RUGBY STADIUM,TOKYOと英語で書かれている。工事概要も、資材も、人員配置もすべて英語。日本が連合国の占領下にあった昭和22年、秩父宮ラグビー場が作られたときの貴重なアルバムである。
大正7年、三井合名は東京に住む三井家の自家用牛乳確保のため、東京府荏原郡松沢村(現・東京都世田谷区桜上水)に牧場を作る。見慣れぬ種類の牛がいる牧場と洋風の牧舎は、藁葺屋根の農家が点在する村で異彩を放っていた。今は公団団地が広がる住宅街で牧場の面影はないが、この牧舎を建設したのが鹿島であった。
奈良県にある生駒鋼索線(生駒ケーブル)は、日本で最初に乗客を運んだ営業用ケーブルカーである。大正7(1918)年8月29日に開業し、今も近鉄生駒鋼索線として急斜面を昇降している。鋼索鉄道(ケーブルカー)とはケーブルを繋いだ車両を巻上機で巻き上げて斜面を走行する鉄道線をいう。この日本初の鋼索線(ケーブルカー)を施工したのが鹿島であった。
明治13年(1880年)3月、鹿島組は横浜から東京に本店を移し、「洋館の鹿島」から「鉄道の鹿島」へと踏み出した。八重洲に移るまでの50年間、木挽町に本店があった時代の鹿島をその時代の証言者たちとたどってみよう。
昭和29年12月、ビルマ(現ミャンマー)とタイの国境近くの山奥で水力発電所の工事が始まった。それは、敗戦後長く占領下に置かれていた日本が行う初めての海外工事であった。熱帯、高温多湿、人跡未踏の密林で始まった工事には様々な苦労がつきまとう。ビルマ最大の発電所、バルーチャン発電所工事施工の苦労を追う。
鹿島の出自は大工であり、幕末から明治初期には「洋館の鹿島」として名を馳せた。横浜居留地の3分の2、神戸居留地の半分以上の洋館は鹿島の手になるものという。今月は鹿島の「有史以前」といわれる、創業から「洋館の鹿島」となるまでをたどる。
横浜や神戸で「洋館の鹿島」として名を馳せた鹿島は、毛利邸洋館を建設中に鉄道頭・井上勝に出会う。元長州藩士の井上は公務の余暇にたびたび旧藩主邸の普請を見に来ていた。鹿島はその働きぶりを買われ、井上から国の将来を担う鉄道工事への進出を勧められる。明治13年3月、鹿島は鉄道工事を事業の中心に据えることになった。しかし、それより前に鹿島は日本初の鉄道工事に関わっていたのである。
昭和22年9月、カスリーン台風が日本を襲う。戦争から占領と続く時代、国土は荒廃していた。堤防補強は休止、河床には土砂が堆積している。大量の雨は荒れた山々から川に流れ込み、増水した川は田畑と化していた堤防を脅かす。9月16日午前1時、堤防から溢れた水が裏側から洗掘(せんくつ)を起こし、利根川は決壊した。
台湾一大きな湖「日月潭(にちげつたん)」。海抜760m、面積100 km²余、周囲37km。緑豊かな高原リゾート地として名高い。今から75年前の8月、渡邊喜三郎は水力発電所見積調査のためこの地を訪れた。当時の台湾は、近代都市台北を擁する人口500万人弱の島。台湾八景の一つ日月潭は、付近に先住民族が住む未開の地であった。
東京の北の玄関口、上野駅。ヨーロッパの駅を思わせる建物は、バブル時代の超高層計画を潜り抜け、リニューアルを続けながら駅の趣を残して今に至っている。上野に駅ができたのは明治16年7月のこと。その後関東大震災で全焼し、昭和初期に建設されたのが、今に残る上野駅である。
6月と12月は賞与(ボーナス)の季節である。日本独特の進化を遂げたともいえる賞与は、いつごろ生まれたのだろうか。賞与の始まりと明治時代の賞与についてたどる。
昭和20年5月25日深夜、3月10日以来3度目の大空襲が東京を襲い、八重洲にあった鹿島本社ビルも焼夷弾の直撃を受ける。「東京は6,908トンの焼夷弾に見舞われ、新たに22.3平方マイルの市街が焼き払われた。 これで東京は焼夷弾爆撃の目標リストから消された。」戦中の鹿島を社員の手記を元に戦時時の社員の足跡をたどる。
当社の発祥は建築であり、英一番館、蓬莱社、岡山県庁、抄紙会社工場(後の王子製紙)をはじめ数多くの建物を手がけ、「洋館の鹿島」として名を馳せる。その仕事ぶりを見込んだ当時の鉄道頭・井上勝の勧めで鉄道工事を行い、その後「鉄道の鹿島」と言われるまでになったが、これを機に土木、建築を両輪とすべく動き出すことになる。建築再生の時代の工事と先人たちの足跡を追ってみよう。
昭和9年3月10日、丹那トンネルのすべての畳築(じょうちく)が完了した。着工から16年の歳月が流れていた。たび重なる事故と犠牲者は断層、湧水、温泉余土が原因だった。大正から昭和にかけての国家事業となった大工事、東海道線丹那トンネルの足跡を追ってみる。
当社は、1840年に京橋で創業してから横浜へ本店を移している。横浜に本店があったことを知っている人は少ないのではないだろうか。創業から再び東京に戻る1880年までの鹿島を、幕末から明治へと変遷する時代背景と絡めながら紹介しよう。
当社の古い資料の大半は、震災と空襲で失われた。そのため、昭和41年、『鹿島建設130年史』製作時に大規模な資料収集を行っている。その後も継続的に資料収集が行われ、総務部本社資料センター(旧・社史資料室)に集められている。「鹿島の軌跡」の第1回は辞令とその持ち主の足跡を探る。